アンジュフォーラム2019「まちを創る」-1
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第8回目を迎えた、「アンジュ 食のフォーラム」。
今年は夏の終わりの8月31日(土)、盛況の内に終了しました。
最後は恒例の、貴彦さんのワインとアンジュ自家製ブッフェで締め括りました。
今年も懐かしいお顔ぶれと新しい出会いに溢れて、嬉しい限りです。
学びのパートは、2つのご講演と、レギュラーメンバーとのセッション。
そして、特別ゲストの伊藤亜由美さんのお話にも、皆さんの共感が広がっていました。
そして、特別ゲストの伊藤亜由美さんのお話にも、皆さんの共感が広がっていました。
- 講演:村岡武さん(ギャラリー村岡)、川口剛さん(北海道テロワール)
- トーク:伊藤亜由美さん(クリエイティブオフィスキュー)に聞く
- セッション:曽我貴彦さん(ドメーヌタカヒコ)、斉藤幹男さん(美術作家)と共に
- 司会:堺なおこさん(フリーアナウンサー)
- 聞き手と記録:深江園子(オフィスYT)
テーマ「まちを創る」講演① 村岡 武さん(函館・ギャラリー村岡)
ご紹介ありがとうございます。
1990年にギャラリーを開いて何とかやっております。今でも現役で店番をしておりまして、壁がガラスですので、外をいつも見ているわけです。店前の交差点に人だかりがしていたので映画かな、TVかなと思って見ていると、華やかな女性がひとり歩いてこられて「見せて頂いてもよろしいかしら」と。いやとは言えませんので入って頂いて沢山お買い上げ頂いたのですが、後日、番組で大げさに取り上げて頂き、商品というか作品をひとつひとつ並べて総額を見せていたので驚きました。街ぶらロケは前もって仕組まれているのでしょと言われるのですが、決してそういうふうではなかったですね。
どうしてデヴィさんが来られるような事になるかと言いますと、ギャラリーがある元町やこの界隈は、函館の伝統建築保存地区なんです。
世界史の中に町を置いてみると
函館の旧市街にある伝統建築保存地区は、3つのゾーンからできています。
まず、開港都市ですから様々な宗教が入ってくる。それで3つの教会が固まって立っています。
ギャラリーの隣はイギリス・カンタベリーが本山のヨハネ教会、そして英国国教会、その隣がロシア正教会。そして道路を挟んで下はカトリック教会です。
キリスト教がどういう経緯で始まったかですが、キリスト教を弾圧してきたローマ帝国の国教となって、市民権を得たといいます。ローマ帝国は東西にわかれる。東はコンスタンチノープル、今のトルコですがこれが東方正教、ギリシャ正教と言われ、西ローマ帝国はバチカン、カトリックであるわけです。
イギリスではカトリックが広まっていましたが、ヘンリー8世が興した英国国教会。3つに分かれたキリスト教が地球を半周して、日本の北海道の、函館の元町というところに集まった。仲良く3つのキリスト教が並んでいるという、奇跡のようなお話です。
東方正教はロシアから、ニコライさんがシベリア横断して日本にやってきた。それも日本で最初に函館につくったのです。
カトリックは例えばインド洋経由で宣教師がせっせせっせとやってきて、函館の元町にたどりつく。アングリカン、英国国教会、プロテスタントと言って良いかと思いますが、これはメイフラワー号にのってアメリカ大陸へ行き、Go Westで西へ進み、さらに太平洋を渡ってくる。ペリーは3週間くらい函館で過ごしているんですね、そして函館にやってくる。
それぞれ、人類がやってきたさまざまな世界史ですね。人々が世界史をつくりながらずうっと函館へやってきたのだと思います。
世界史をつくった3つの教会が函館に集まったんだと。そう考えて頂くと、人類がやってきたことを振りかえって、これでよかったのかな?と考えることができる。近代ヨーロッパ合理主義の速さや合理性や、我々が今享受している現代文明というのはこういうところから始まったのじゃないかと。そうした場所に私は28年間住んでいる。その中で、どうもこれはおかしいんじゃないか、これはだめだと思うこともあります。
函館は開港を誇るのですが、つまり近代ヨーロッパの思想や価値観をいち早く身につけたという面はありますが、そうではない面もあります。経済的にいち早くお金を稼ぐことがいいんだというのは違うような気がします。それぞれの考え方だと思いますが、町にあつまった人たちが競争して人よりも早く、多く何かを得ようとする。途方も無い環境に放り込まれてしまっている気がする。そういうようなことが、私は気が小さいので心配でしょうがないんですね。
町の変化は、電車から眺める
私は聖子さんに声をかけられるとすぐハイ、と返事をしております(笑)。もうひとつの理由として、黒松内の土地柄がとても好きなんです。まず景色が好きです。森があって畑があり川が流れていて、豊かであることが目に見えるような風景。そして、そのような場所で社会福祉施設ですとか、私のように歳をとった人間の最終的な安心感を与えられる事柄を的確にやっている町。そうしたところに本当の豊かさを感じるせいかもしれません。大きなビルや高速道路や地下鉄とかそういうことではなくて、安心できて見た目にも美しい環境。それが、本来のまちづくりの方向のような気がします。まちづくりというとすぐ活性化、進歩、成長などと言ってしまいがちですが、それは人間の目指す方向ではないに違いない。黒松内に来ると本当にホッとするわけです。おいしいもの、気持ちの良い空間の中で過ごせる。そういったことというのは、とても贅沢なことだと思うんです。
函館のことに戻りますね。私の住む場所は西部地区と呼ばれているのですが、函館の都市の種(たね)がどこに蒔かれたかを考えると、函館山の麓、旧市街地とも呼ばれる、今の函館どっくがあるあたりから函館山の裏にかけての場所に小さな種が蒔かれた。富山あたりの漁師が鰤を追ってきて上陸し、住み着いたのが始まりと言われています。そこへ江戸幕府が拠点を設ける、あるいは高田屋嘉平が拠点を設けて北洋へ出ていき、巨万の富を得る。そうして函館山の裾野に大きな町ができる。人々がやってきたのは船です。それも風で動く帆船です。風に乗って、物も知恵も風にのってやってくる。だから私の住んでいる辺りは、風によってできた町なのだと言えます。そのうち、後ろが山で横が港で津軽海峡であるとなると、人々がいっぱい住み着いて飽和し、狭いところで幅1kmないそうですが、そこから東へ、函館駅の方へと広がっていきます。明治13年に小樽との間に鉄道が敷かれる。連絡船が本州と北海道を結び函館駅の後ろに桟橋ができる。鉄道も連絡船もどちらも蒸気機関ですから、石炭でできたのが駅前大門地区です。そこへモータリゼーションの波が押し寄せてきて、広い道路が伸び、飛行場ができる。これは石油エネルギーのまちです。つまり、風のエネルギーとして出来上がったまち、石炭エネルギーで出来上がったまち、石油エネルギーで出来上がったまちがある。青森県下北半島には大間原子力発電所が計画され工事が進んでいますが、函館はエネルギーを使い返してやってきた歴史が、まちの中に色濃く残っているわけです。歴史はどこにも残っていますが、函館山の麓という特殊な場所に都市の種が蒔かれたので、人類の経てきた歴史が町の中に色濃く残っている。私の友達は本州から遊びに来ますが、飛行機にのって空港についたら、市電のターミナルは湯の川、函館どっく、谷地頭と3つあるが、まず湯の川から函館どっく行きに乗ってごらんといいます。先ほどお話ししたように、石油から石炭、風へ人類の歴史をさかのぼる旅であることも感じながら来てね、というと納得してくれます。
進歩がいいとは限らないのです
私は十勝の生まれで、1943年ですから戦中派です。物もないし電気もないところで育ちました。小学校1-2年生の頃、電気を引くことになった。自分たちで電柱を立てると、北海道電力が電線を引っ張ってくる。今日はいよいよ電気がつく日だぞと父が言うのです。それまではランプで育ちました。今思えば大変ですが、その時はそれが当たり前だったので不便でもなんでもなかった。ランプの下でご飯もたべたし勉強もしたし。ちょっと暗いなといえば紙を入れて煤をとり、油を足して生活できた。初めて電気をパシッとつけると、明るかった。今でもよく覚えています。見えなくてもいいところまではっきり見えた。それからラジオ、ステレオ、洗濯機、テレビと、家の中に家電が溢れるわけです。音更川上流にダムができ、電気もどんどん送られてくる。変化に変化を重ね、進化に進化を重ねる。電気製品が次々に生み出される。それを見ながら育って現在に至ったわけですが、これを本当に進歩といえるのかな、これでよかったんだろうかと、ふと考えます。
函館にやってくる様々な人たちがいてギャラリーにも寄ってくれるので、お聞きするわけです。すると、函館はゆっくりした時間が流れているまちが大好きですとおっしゃいます。一番印象に残っているのは、大阪の辻さんという姉妹です。コツコツ働いて、お金が貯まったら函館にくる。50回、60回とこられたわけです。「飛行機がスーッとついて扉があいて、函館の空気に触れた体の細胞ひとつひとつが嬉しい、嬉しいと喜び出すのがわかるんです」というのです。
何をするわけでもないです。旧市街地を歩いてリラックスして2泊ほどして帰る。帰るときに函館の水のボトルとお茶屋さんのお茶を買って、大阪に帰ってその水でお茶を入れて、よかったね、また行こうねと。それでまた、元気と勇気を持って働くわけです。
あるとき、姉妹の片方の人が膠原病になった。函館に行かれないと悲しげな電話がくるわけです。食事療法を受けて少しずつ良くなり、またいきますよと。ホテルに食事療法の対応をして貰えるとわかってまた来てまた帰った。その後、もう片方の人も同じ病気になってしまった。私はブログを書いていますが、そうした人たちがたくさんいることもあって、函館は今日、雪が降ったよ、風が強いよ、と画像を入れてメッセージとしてお届けしています。で、その辻さん姉妹の後でご病気になった方から電話がきて、私のブログの中の写真をプリントして、病院の待合室でじいっと見ているというのです。だからなるべくたくさん、私たちがいつも歩く道の写真を送ってちょうだいと言うので、一生懸命撮ってアップしました。その後病気が治って、まあこじつけもありますが、函館の風景は難病も直すということがわかりました(笑)。
そういう景色、つまり人類が経てきた成長進歩活性化、そういうものを誇り、壊して作る繰り返しが成長だ進歩だと言うのですが、そういうことではなく、古い建物も残ってるし、それを若い人が使い返しながら誇り高く生きている。それが西部地区、旧市街地区ではないかなと思います。ですから都市のありよう、まちづくり、古い公共の建物が取り壊される時、何度も何度も市役所やら市長だとかに訴えてきました。陳情書を書くのもすっかり慣れてしまって、誇れることではないんですけれども。みんなが穏やかな時間を過ごせる町のありよう、それは進歩や成長とは意味が違う。そこを今日、一番申し上げたかったのです。今風に言えば持続可能性というのでしょう。壊して作れば作るほど、ゴミと借金が残る。そんなやり方ではなく、残されたものを直しながら大切に使う。昔はとても考えられなかった地球温暖化などを見ると、これは進歩成長だとおもっていたが、いつまでも続くわけではないと言うことは、みんな感じていると思います。若い人、これから生まれてくる人には、ぜひ安全な環境をのこしてあげたい。私の世代は何もないところから強欲にやってきた当事者なわけで、それを考えると辛くてたまらない。そうした私が黒松内に呼ばれてやってくると、本当にほっとするのです。人の価値観はそれぞれ違うと思いますが、こういう時代になってしまうと、持続可能性で考えていかなければならないのではと思います。選択肢は限られている気がする。私にとってそれを確認できるのが、黒松内というまちなのです。//
司会:函館でギャラリー村岡の近くを歩いていますと、教会があって、歴史的建築があって、外人墓地があって、そのうち、自分が港を抱くような形に海が見えてきて、船が入ってくるのが見えたりします。まるで、人生ってこのようなものなんじゃないかなと感じさせて頂ける道だなと、そんな風にいつも思っております。
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