アンジュフォーラム2018 まとめ-2

2018年9月1日に行われた「アンジュ 食のフォーラム」の3回まとめの2回目は
小栗隆さんの講演録です。 

 

◆小栗隆さん「20年の放牧酪農を次世代へ繋いで」

 

小栗さんは酪農の先駆地である道南・八雲町の酪農家です。進行の堺アナウンサーが紹介されたように函館酪農公社のプレミアムブランド牛乳に使われ、私たちも飲むことができます。また奥さんの美笑子さんのチーズは乳の新鮮な味と香りが伝わる、ここでしか作れないチーズです。

・理想を描いた独立

  私が就農したのは1973(昭和48)年。専業になったのは1985(昭和60)年。その間は乳牛と畑、父の農場経営に参画していました。でもやはり自分の思うようにやりたいという気持ちがあり、昭和49年にトラクターを1セット導入しました。それまでは馬で畑をおこしており、地域ごとにトラクター組合をつくって使っていたのを、自分で機械を持ってやっていこうとしたんです。牧草作業機を入れました。1975(昭和50)年に土地を購入したり住宅を新築して結婚するという、大変な(笑)年でした。その上1979(昭和54)年には牛舎を改築して自動化したので、当時の水揚げ(売上)が2000万ほど、借金は4500万円ほど負って、借金を返すために一生懸命働いてきたという感じです。結婚記念日は127日ですが、農家の12月は1年間の収支を合わせる月。だけどそんな状態では収支が合うわけがない。だから毎年、結婚記念日らしいこともできずに来ました。若い農家さんには結婚するなら12月は止したほうがいいと思います(笑)。当時、父は牛だけでなく田んぼも、ジャガイモ、ビートなど色々な作物を作って収支を立てていたのですが、私は両親の世話にならずに二人で働いて自主性を持ちたい、二人でやれる農業形態として酪農一本に決めました。その間、一滴でも多く絞りたい、一年でも早く借金を返して経営を安定させたいと、牛に無理をさせ、人間も無理をして働きました。牛舎や機械の資金は、農業制度資金といって国から融資を受けるんです。農地等取得資金であれば金利3.5%です。一年の償還分が足りなくなることもありえます。そういう時は農協の短期資金を借りて充てるのですが、短期資金の金利は11%。今からは考えられない数字ですよね。その中で四苦八苦しながら、(借金が)雪だるまにならないようにしながらやってきました。そうして牛に無理させられたのは、餌の穀物が安かったからです。穀物を与えて少しでも多く絞るのが当時の指導でしたし、私たちもその方向で努力して、その中でなるべく牛の体調を損なわないようにやってきたつもりでした。でも原点に帰れば、牛は草食動物。いろいろな病気になりました。牛を牛舎につないで人間が餌をやり、たくさん乳を絞る。これは今でいうアニマルウェルフェアとはかなり違うやり方です。ひどい時は、朝牛舎に行ったら、それまで乳が40kg以上、50kg近く出ていた牛が倒れて死んでいたことさえあります。乳房炎の頻度が高かったり、「ヨンペン」、第四胃変位といって、胃の位置が悪くなって餌が食べられなくなり乳が出なくなる病気も経験しました。餌になるサイレージはサイロに餌用作物を入れて作ります。この建物の前も立派なサイロがありますが、うちのは直径18尺高さ30尺で、もっと大きかった。畑で育てたデントコーンでサイレージを作るのですが、ある年、業者さんに依頼していた収穫が大幅に遅れてデントコーンが過熟状態になり、サイレージが上から下まで熱を持つほど発酵してしまった。その餌が原因でヨンペンが5頭も出て、獣医さんから「もう一頭(手術で胃を)切ったら八雲の記録更新だよ」と言われました。人間が牛に給餌して搾乳して借金を返すという酪農でした。

・マイペース酪農の衝撃

  当時のやりかたを「あれは介護酪農だ」、放牧農家でそう言ってくれた人がいたんです。ああ、本当にそうだなあと思いました。息子が小学生の頃、「うちはどうして放牧しないの?」と言われたことも頭に残っていたし、お母ちゃんの言葉もあった。彼女は農業と関係ないところから来て10年間、私の言うことを聞いて頑張って辛抱していたんですが、獣医さんが来ると質問したり自分なりに知識を蓄えていって、最後にこう言いました。「牛がこんなに病気になったり死んだりするのが、本当の酪農なの?」。手厳しい言葉です。また、1988年頃に一冊の本に出会ったことも興味を深めてくれました。「牛のいる北の大地」という本です※1 。それから獣医さんと農協の若手と四人で月一回の勉強会を始めて、本を書いたマイペース酪農の人たちの話を聞きに中標津に飛行機で飛びました。向こうでは初めて会う私たちを仲間にしてくれ、自分の時間を割いてくれました。しかも酪農家の奥さんたちが作ったおやつやパンやチーズを出してくれました。どうしてこんな風にできるのか不思議でした。それは放牧だからだったんです。朝、乳を搾ったら牛は勝手に餌を食べに行く。その間に人間は仕事ができるし人に会ったり趣味もできる。そして夕方また乳を搾る。人間は人間らしい生活サイクルができるし、牛は牛らしい暮らしができる。それによってできた余裕で自分たちを迎え入れてくれた。衝撃的でした。

 

・放牧への転換でめざすもの


とにかく奥さんたちのにこやかな顔が印象に残っています。うちのお母ちゃんもそれまではあまりにこやかな顔ではなかったけれど、放牧に切り替えてからはだいぶにこやかになって、今だいぶ罪滅ぼしをしています。うちで初めて牛を放牧地に出した時、牛たちが最初は戸惑うんです。生えている牧草の食べ方がわからないし、歩き方もなんだかぎこちない。それまでの飼い方では、牛たちは一生牛舎の中で過ごして外に出ることがなくて、外に出されるのは乳牛としての価値がなくなった時でした。だから外に出してもすぐ帰ってくる牛がいたり、電気牧柵に突進する牛がいたり、色んなことがありました。そのうち牛も人間も慣れてきて、放牧地も慣れてきました。それまで人間が草を刈って牛舎に運んでいたのが、牛が自ら食べにくる。それで放牧地が放牧地らしくなってきました。牛が丈の高い草を食べると、背の低いクローバーにも日が当たる。それで今まで1割くらいだったクローバーが2割3割と増えてくるんです。彼ら(クローバー)が何をするかというと、根の力で空中窒素を土の中に固定して、牧草地の土を肥えさせてくれるんです。一年ごとにそういう畑になってきて、牛も草の食べ方がわかってきて、3年がかりで餌代は300万円まで下がりました。一方、餌を減らしたことで乳量は全体で150トンくらい減り、売上も減ったんです。当時の乳価7080円ですから約1千万。餌代が700万円浮いてもまだ減収で、大変でした。でもマイペース酪農の奥さんたちの笑顔は間違いないだろうと思って辛抱しているうち、徐々に成績が上がってきました。乳量が下がっても、経費が少なくなり、ある程度の所得が確保できるんですね。そして人間も楽になって牛も牛らしい。そういう生活をして今まで来ました。放牧転換して21年になりましたけど、牛ができることは牛にやってもらい、少ないコストで高所得を目指しています。
放牧転換してから、放牧地に化学肥料は一切やっていません。クローバーなどマメ科植物の力で土が変わり、ミミズが増えて、自然の回復力はすごいなあという感じがします。牛を入れない採草地のほうも、2005(平成17)年にデントコーンを止めて牧草に切り替えました。こちらも化学肥料は使わず、わずかですが炭酸カルシウムなどを入れて土のpH調整だけをしています。採草地で化学肥料をやめた年は畑が真っ黄色になりました。草は人間が肥料をくれる前提で生きていたのに、いきなり絶たれたからですね。その中でところどころ緑の部分があるなあと見てみたら、そこはクローバーでした。何年かのうちに黄色は緑に変わりました。窒素収支(農場に入れる窒素と出て行く窒素)を同じにしたいんです。窒素は植物に必要ですが、土の中に余分な窒素が蓄積しすぎると、植物によくないからです。フランスに行った時セーヌ川を見たのですが、どっちが川上かわからないくらいゆったりと流れています。(水の移動が緩やかで窒素が移動しにくい。)だからヨーロッパでは窒素に対する規制が明確です。日本の川は急峻なので環境はだいぶ違いますが、農地に余分な窒素をできるだけ入れないようにする、これは今後の農業に対する責務のひとつだなと思います。だいたい、これがうちの牧場についてお話ししたいことです。

・放牧を学んで出会った酪農家たち


  ここからは少し、放牧の勉強で出会った方々の事をお話しします。皆さんは旭川市・斉藤牧場の斉藤晶(あきら)さんを知っていますか。80代後半か90歳かもしれないな、始めは山を開拓していて畑を作ったけれどキツネにやられてどうにも大変だ。ならばと牛を飼い始めたそうです。牧場を見学に行くと、まるで山の公園に牛がいるみたいな景色です。斉藤さんは「学のある人間はダメだよ」と言いました。五感で自然をどう捉えるか、仕事をどう進めるか、そういうような感覚を持ってやっていかなければダメだと言われて、なるほどなと思いました。足寄町の佐藤智好(ちよし)さん、この方も放牧酪農家ですが、以前はたくさん乳を搾って経営しようと考えていた方なんですが、転換してからつくづく共感した名言があって、「経営拡大は、男のロマンで女の不満」と言うんです(笑)。
中標津町の三友盛行(もりゆき)さんは、先ほど曽我さんが言われた風土(テロワール)という言葉を使っています。彼は「放牧で風土に生かされた酪農をする」と提唱されています。浜頓別の池田邦雄さんは、私より早く北海道から酪農で天皇杯を頂いた方です。その人は「放牧こそ自立できる酪農だ」と言っています。7部門の受賞者代表として天皇陛下皇后陛下の前でご説明をした時、「何が一番大変でしたか」というお尋ねに「男の子をつくるのが一番大変でした」とお答えし、陛下がお笑いになったそうです。十勝清水町の出田基子さんは新規就農の酪農家で、国政選挙に出られたことのある方で、クローバーなど丈の短いタンパクの高い草を牛が食べれば放牧経営が成り立つという意味で、「放牧地には札束が転がっている」と言いました。もうひとつ、酪農家でない方の印象的な言葉を紹介したいと思います。アイヌ文化研究者の萱野茂さんが言われたのですが、「人間は自然の利息で生きなければいけない」という言葉です。元まで取っちゃあまずいよと言うことだと思います。酪農をやりながら、少しでもその境地に到達できるように頑張ってきたつもりです。
  うちは1906年に祖父が岐阜県、今の可児市から来て112年目になりますが、曽我さんも言われた通り、繋いでいくのは大変です。平成22年に息子に経営移譲して8年、今は息子が嫁さんと一生懸命格闘していて、私も少し手伝っていますが、繋がっていくことがいかに大切かと感じています。私が帰郷した時、農業を糧として生活している家族が50戸ほどありましたが、今は15戸くらい、3割に減っています。それで地域で何が起きているかというと、家族経営ではいかがなものかということです。うちから近い場所ですが、組合で牧草を収穫し貯蔵するTMRセンターができています。予算45000万円です。今年4月には搾乳ロボット4台を導入した法人が設立され、これが18億円。センターはもう一箇所着工していて20数億円。こうして遊休地も含めて集約して農業を続けていこうとしています。一方で、家族経営で新たに始めようという人にとっては入りにくい時代になりかねません。八雲では去年今年と2軒の新規就農者がありました。でも、これだけお金をかけて農業経営が成り立つのか、特に酪農はどうなのか。今は乳価が高いけれど、これがいつまで続くか。現場ではそうした危機感も抱きながら、人の命を守ることとして安全なものをつくりたい。最近、大学の同級生に会ったら、ある本で「農家が食料を生産しなければ、他の職業はない」という話を読んだと言っていました。私たちの酪農がこれからの世代に繋がるものでありたいなと思っています。//

※1 「牛のいる北の大地 : 浜中町酪農交流会の記録」(浜中町酪農交流会実行委員会 1995年)

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